パヴロフスキー・ポサド (Pavlovskiy Posad)
オカ川の左支流・クリャージマ川沿いにありヴォフナ川がここで合流する. またモスクワからウラジーミルを経てニジニ・ノヴゴロドへ向かう鉄道が通る.
人口は2002年国勢調査で61,982人(1989年調査では 71,297人).
この地にあった小さな村パヴロヴォは1328年の記録に初出する. パヴロヴォはモスクワとウラジーミルを結ぶ街道上にあり商業の上で重要で、周囲一帯は有名な至聖三者聖セルギイ大修道院の領地となっており、17世紀半ばに国有地とされた.
パヴロヴォにあった集落は1845年にパヴロフスキー・ポサドという町となり、ドゥブロヴォ、ザハロヴォ、メレンキなどの村を吸収して大きくなった. こうした複数の村にまたがる街の成立は19世紀のロシアではまれで、地元商人が精力的で進取の気風に富み裕福であったために成し遂げられたことであった. 当初からパヴロフスキー・ポサドは繊維産業の町として栄え、とりわけショールの生産で有名であった. 現在もロシア式のショールやカチーフを生産している工場もある.
19世紀半ばには商人同士の争いも起こった. 一方のグループはもとのパヴロヴォの村にあたる街の中心部に住む商人たちで古儀式派の容僧派の信仰を持っていた. もう一方は近隣の村出身の商人たちであり、彼らもまた古儀式派の逃亡僧派の一派であるルシコフ派(лужковцы)の信徒であった. 両グループの信仰の違いも対立の一因となった. 1840年、近隣出身のグループを率いていたY.I.ラブジンとその親類らはルシコフ派から、ロシア正教会の主流派に属しながらも古い典礼を守るエディノヴェーリエに改宗し、政府にとっても望ましい勢力となった彼らが対立グループを打ち負かした. ラブジンらの工場はロシア最大のショール生産工場となり、ソビエト連邦時代も継続して生産を行った.
19世紀末から20世紀初頭にかけ、豊かな経済や信仰を背景に、多くの聖堂と修道院がパヴロフスキー・ポサドに建設されていった. 古儀式派が多かった19世紀半ばのパヴロフスキー・ポサドで、正教会の主流派の信仰を広めたヴァシーリー・グリャズノフは1999年に聖人とされた.